細部

@Chums_of_Chance

善し悪しの基準は人それぞれか――相対主義について

何が正しく何が間違っているかということに、絶対的な基準などない。だからみんななんでも好き勝手にして構わない。

という考え方は、相対主義(倫理的相対主義と呼ばれる立場である。善さや正しさに絶対的な基準は結局のところ無いと考えている人は、意外に多いように思う。

 しかしこの相対主義という立場を、自己矛盾しないように主張することは難しい。以下にその難しさを簡単にまとめた*1

相対主義は自己論駁的

 まず、相対主義は、相対主義自身を論駁してしまうという難点がある。つまり、「みんななんでも好き勝手にしてOK! 」という相対主義の価値判断を、「絶対的な基準など無い」という相対主義の主張それ自体が否定してしまうのだ。「絶対的な基準なんか無いんや!」と言いながら、「相対主義という基準は絶対的だ!」と述べることは矛盾している。

 これに対して相対主義の側からは、「なんでも好き勝手にしてよいという相対主義の基準だけを除いて、善さや正しさの絶対的な基準は無い」と修正する方法があるかもしれない。 相対主義だけは例外にするというやり方だ。

 しかしこのように修正した場合には、「ずるい! どうして相対主義の基準だけが特別扱いされるの?」という疑問に対して、相対主義の側は説明しなくてはならない。果たして説得的な回答は可能だろうか。

相対主義を受け入れる覚悟はいいか?

 さらに、相対主義を本気で受け入れることには、実際的な困難も伴うと思われる。「殺人はよくない」とか「盗みは悪い」といった、ごくごく一般的で、大多数の人が直観的に受け入れている前提さえも、相対主義を受け入れる場合にはすべて否定しなくてはならなくなるからだ。そこが相対主義者のつらいところだ(もちろん、そうであっても、強い相対主義的覚悟(?)を持って相対主義を主張することは可能だが)

 例えば、あなたが持っているラブライブのグッズを、すべて空き巣Xに盗まれたとしよう。相対主義を受け入れるならば、「Xの価値判断基準において窃盗が悪くないのだったら、Xがラブライブのグッズを盗むことは、倫理的に悪いことではないのです」とドライに言うことになる。僕はもしXにラブライブのグッズを窃盗されたら、Xの行為は不当だと思ってたぶんキレる。もしあなたも同じように「不当だ」と思うならば、あなたは相対主義者ではない。何らかの価値判断の基準が存在しなくては、そもそも「不当だ」という判断を下すことはできないからだ。

そんなわけでまとめ

「善し悪しの基準は人それぞれ」という相対主義の主張を擁護することは、

  1. 相対主義が自己論駁的だから
  2. 相対主義を受け入れることが現実的には困難だから

という理由から、難しいように思われる*2

*1:なお、このエントリーを書くにあたっては、伊勢田哲治『動物からの倫理学入門』(名古屋大学出版会)のP.11〜12を参照した。

*2:以上のような議論に対する、相対主義側からの反論が載った文献も探しています。また、よくよく分析すれば相対主義は自己論駁的でない、という可能性もあるので、そちらについても何かご存知であれば、ぜひご教示ください。